秦による中国統一をもたらした法家 覇道の教科書『韓非子』

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商用サイトは、王道のような「ねむたい」ことをやっておれません。
Googleのフィールド(戦場)で、数多くの競合とバトルするわけです。

今回あらためて、「覇道」とはなにか? 読書歴によってまとめてみます。

帝道、王道、覇道

私なりの見解とお断りして、韓非子の記述によると次のとおり

帝道は「徳」、王道は「智」、覇道は「力」

また、中国史をご存じの方はお分かりと思いますが、殷から周、そして春秋・戦国を経て、秦が中国を統一します。
なぜ、秦が勝ったのか?
他の国には、チャンスがなかったのか?

敵対者が多い時代では、「覇道」こそが勝ち抜ける。
では、その「覇道」の本質とは?

管仲:宮城谷 昌光

誰もがご存じの三国志時代の偉大な軍師、諸葛亮孔明が尊敬していた歴史上の人物は、楽毅と管仲です。

楽毅は、バリバリのサラリーマン時代に読んで、異常な感動をおぼえました。

超弱小国の燕の将軍となり、同盟を結んだ韓・魏・趙・楚の五国連合軍を指揮する総大将となり、東の大国の斉を滅亡寸前に追い込むのです。

なお、西の大国 秦に対して、斉が東の大国になったのは、春秋五覇となった桓公と宰相の管仲によるものです。

管仲:宮城谷 昌光

まず桓公と管仲による覇道を知るために、『楽毅』と同じ作者の宮城谷昌光の本を。

まあなんと! 桓公と管仲は長い長い雌伏の時を過ごし、さらにまた管仲による桓公の暗殺未遂事件などを経て、斉は覇者になっていくのです。

ちなみに、この管仲の政治は、「法家」的と評価されています。

戦国名臣列伝:宮城谷 昌光

では、中国の戦国時代はどうなのか?
好奇心は尽きません。

やはり、宮城谷昌光の本を。

戦国名臣列伝:宮城谷 昌光

さて目次を見て、気づきませんか?

  1. 越の范蠡
  2. 魏の呉起
  3. 斉の孫臏
  4. 秦の商鞅
  5. 燕の蘇秦
  6. 秦の魏冄
  7. 燕の楽毅
  8. 斉の田単
  9. 楚の屈原
  10. 趙の藺相如
  11. 趙の廉頗
  12. 趙の趙奢
  13. 秦の白起
  14. 秦の范雎
  15. 秦の呂不韋
  16. 秦の王翦

16人中6人が秦、しかも終わりは4人で固まっています。

つまり、戦国末期は秦の中国統一へ向けて、名臣も目白押し?ということでしょうか…

ところでこの16人、天寿を全うした人は少なく、まさしく「蜚鳥尽きて良弓蔵せられ、狡兎死して走狗煮らる」。
御用済みの名臣は、君をおびやかし、上司同僚部下にねたまれ讒言されて、横死するようです。

なお、魏の呉起は「孫呉」と言われるように「兵家」として有名ですが、政治手法は「法家」の先祖のようにもあつかわれています。
同じ「法家」の祖としては、秦の商鞅。
呉起も商鞅も、走狗として煮られるのですが、魏は法を捨て、秦は法を捨てませんでした。

韓非子と法家

ということで、覇道を進めるには、中国では「法家」の政治手法が決定的だったわけです。

法家の集大成は、韓非とその著作『韓非子』。

(↑帯に凄いことが書いています!)

韓非子といえば(あるいは「法家」)、性悪説やら冷酷非情やら、とくに秦帝国誕生に功あった李斯(彼も「法家」)の焚書坑儒などの悪名によって、日本では評判が悪いです。

韓非子によれば、法家の政治学とは
凡人の、凡人による、凡人のためのマネジメント です。
徳のある帝道も、智のある王道も、必要ないのです。

名君、名臣を願い、暴君、奸臣を嫌っても、それらは百年に一度あるかどうか…
ほとんどの時代は、上下左右すべて凡人の組織になるわけです。

よって、偶然とか、恣意とか、イレギュラーなものに期待するのではなく、人徳も、才能も、知恵も無い人たちによっても運営できる組織をつくるべき、というのが法家集大成としての韓非の結論になります。

つまり組織を、突出した指導者やヒーローを必要としない、人材に依存しない、誰でもできるシステムとして運営するべきということであり、普遍的なマネジメントの思考と行動の理論となっているのです。

しかも、組織だけでなく、たったひとりでもルールをつくって、信賞必罰で行動を律することもできそうです。

管仲の斉からはじまって、最後は秦で結晶するのは、法科の哲学による、凡人の上下で天下の覇者となるシステムの構築だったわけです。

ダイジェストというか、分かりやすいのは下記でしょう。

特別な人材や、特別なやり方に左右されない、「利」を中心として、平均的に目標達成するもの。
それが「法家」の軍事・政治の究極の治世学ということです。

ちなみに、諸葛亮孔明は、劉備の息子に教科書として『韓非子』を与えたとのことです。

その時歴史は動かなかった!?:鈴木 眞哉 (著) 後付けご都合史観の戒め

ブログに投稿しているヒマはないほど忙しいのですが、とりあえず大事なことなので…

ここで紹介するのは、題名からも想像できるとおりNHKの「その時歴史が動いた」の批判本です。

とは言うものの、歴史通というか歴史ファンというか、日本史に興味のある社長や管理職の方にはかなり耳の痛い本です。

つまり、常識とか通説とか、あるいは評判のビジネス本とか経営ノウハウとか、それらを鵜呑みにしてはいけませんぜと。

もっとも、はなっからわが祖国の歴史とか、信長・秀吉・家康の天下人の業績には関心のない輩は論外ですが…

その時歴史は動かなかった!?:鈴木 眞哉 (著)

その時歴史は動かなかった!?:鈴木 眞哉 (著)

まず、この『その時歴史は動かなかった!?』は、題名どおりのNHKの超人気番組の批判に徹しています。

目的は、NHKが流布する間違った日本史、および歴史観を攻撃することですから、否定したあとに別の解答があるというわけでもありません。

そのため、批判は理解できても、では真実は何かと釈然としないものが全編を覆っています。

しかし、今まで自分が信じてきたものが、ひっくり返されることは、間違いありません。

だからこそ、歴史好きの社長や管理職の方にお勧めするのです。

そのような方は、趣味道楽の蘊蓄程度なのか、はたまた経営や組織運営、マーケティングなどに活かすのか、特に戦国武将の生き様や、戦(いくさ)の巧拙には多大な関心を持っているはずです。

で、私は、見事に自分の定見をくつがえされて、さらには、経営や事業などを再認識させられた次第です。

歴史は常に勝者の側から書き替えられる

まず、歴史には「たられば」のない、一回こっきりのエピソードの積み重ねです。

これを、偶然とかまぐれの産物と客観化できればいいのですが、必然を読み込むと、いつも勝者の側の言い分だけを鵜呑みにしてしまいます。

ですから、勝ち組が自分たちの都合のいいように歴史を書き替えるだけでなく、後世の者も同じように後付けで、まるでシナリオが用意された芝居のように受け取ってしまいます。

権謀術策もなければ、臥薪嘗胆で捲土重来を期す、それらは後世の作り話ばかりのようです。
後付けの予定調和、ご都合主義…

鎌倉幕府もできちゃった政権で、そもそも「幕府」という武士政府を表す用語も江戸時代の発明らしいです。

また、武家政権は将軍職でないとダメとか、将軍は源氏から選ばれるとか、全部違うみたいです!

驚きですよね!?

桶狭間も、川中島も、三方原も、長篠も、賤ヶ岳も、関ヶ原も…

ということで、歴史が動く、その時はなかったということです。

日本の戦争史は昔から常に弓や礫(つぶて)、鉄砲などの「遠戦志向」

この本は、平将門・平清盛からはじまり、田原坂・二百三高地で終わっています。

見出しの「遠戦」という言葉は知っていました?

引用してみます。

「はじめに」で、私は「日本人の戦い方はどういうものだったのか」ということを考えてきたといった。そのため、この本では、平将門の乱から西南戦争まで、『その時歴史が動いた』のなかでも、そういうことに関連した事件を数多く取り上げる結果となった。

 それらの事件は起きた時代が違うだけでなく、中身や影響もさまざまだが、その根底にある戦闘思想のようなものは一貫している。それは遠戦志向主体だったということである。といってもわかりにくいかもしれないが、弓矢や石・礫、さらには鉄砲といった遠戦兵器、つまり飛び道具に依存する傾向が強かったということである。

これは、驚天動地の見解ではありませんか!?

もちろん、刀や槍のような白兵も用いられたが、飛び道具にくらべたら依存度はずっと低かった。まして、白兵を振るって接戦格闘することこそ戦闘の本質であるとか、そうしなければ戦闘の決着がつけられないといった白兵主義の思想のようなものは、かつて存在したことがない。

商品開発とか、経営戦略とかはともかく、日本の企業の営業では、ほとんどが「白兵主義」ではないでしょうか?

これは、歴史上は、つまり書き残された戦争の記録では、二百三高地以前にはまったくなかったことというのです。

日露戦争勝利の結果(代償)として、第一次世界大戦後に欧米列強が白兵戦から空中戦へと戦争を転換させ切ったにもかかわらず、日本だけは銃剣突撃、白兵による肉弾格闘が支配的となってしまったと。

皮肉なことに、この時だけは歴史が動いた、と言えるそうです。

『その時歴史は動かなかった!?:鈴木 眞哉 (著)』に学ぶこと

自分が信じていることが、事実と違うかもしれないと疑えよ、ということ。

新聞やテレビは言うにおよばず、ビジネス書でも、先輩経営者でも、その発言や情報は、正しいとは限らない、むしろ大きく違っている、ということ。

自分自身の成功体験さえも、その総括を間違えば、その後の経営や事業を失敗しかねない、ということ。

ということは、あらゆる事実や真理の認識や判断に問題があるかもしれない、ということになります。

恐ろしいことですね。

超訳『資本論』的場昭弘著 起業家として読む「資本論」序章

私は、起業し、1円株式会社とはいえ社長になっています。

今また逆に世の中では、サヨクが、「蟹工船」でワーキングプアの自分たちになぞらえ、また「資本論」を読んで、資本主義の搾取を暴き、階級闘争を目論む者も出てきているようです。

私は、実は「資本論」を読むにいたったと同じ理由で、社会主義が大嫌いです。

今後展開する予定の、起業家として読む「資本論」の結論は、計画経済および官僚主義の批判であり、全体主義の拒絶であり、消費者不在の労働運動の否定です。
そしてマルクスの誤りは、西洋知識人が誰でも陥った「科学」に対する信仰だったのです。

超訳『資本論』的場昭弘著

超訳『資本論』的場昭弘著

では、マルクスの「資本論」の前に、レジュメのような本を紹介しておきましょう。

超訳『資本論』: 的場 昭弘

マルクスの「資本論」では、商品の交換によって、ある商品が貨幣の形態を取るようになり、この貨幣が資本へと転化する、と論理を進めます。
これは、非常に弁証法的な展開で、知的な満足感を得ることができます。

なおマルクスは、人類の歴史として市場社会や資本主義が登場し、資本家は資本の人格化であり、極端に言えば歴史の必然性によって、搾取をさせられている、資本家という役割をこなしている、という認識を示しています。

つまり、剰余価値にせよ、階級闘争にせよ、善悪の彼岸にあるということですね。倫理とか道徳とか、あるいはヒューマニズムを超克した、歴史主義と言えるでしょうか。
これが分かっていないサヨクが非常に多いです。

商品・貨幣・資本と市場社会 そして「科学」

さて、的場昭弘氏は、はしがきでこう述べています。

遺伝子たる商品が残っていれば、また同じような資本主義が復活します。

語るに落ちた、と言えば失礼でしょうが、サヨク的に搾取をともなうと見なされる資本主義は、市場経済と不即不離であり、「資本論」の冒頭にあるように、商品は貨幣を生み貨幣は資本に変わるわけですから、話はややこしくなってきます。

つまり、資本主義を廃止するには、資本家を打倒するのではなく、市場社会を壊滅させなければならない、こういう結論になりかねないのです。

そしてさらに、生産と消費の矛盾、その暴力的な解決が恐慌です。

となると、市場経済を廃止し、生産と消費の矛盾を解消するために、計画経済なるものが後世に発明されることになります。

頭のいい人、よく分かっている人、指導者が無知な大衆を導くわけです。

これが、党とか官僚とか全体主義の温床となる理論的根拠なんでしょうね。

社会主義に限らず、政府による規制または保護も、似たり寄ったりです。正しいことを考えるという人が、君臨するからです。
だから、自由の人ハイエクは、ケインズを批判したんでしょう。

分かっている人が、分かっていない人に干渉する正当性が、「科学」という正しい結論を出せるという信仰なんですね。

一度サヨクは、剰余価値を発生させない企業を作ってみたらどうですかね。やれるものなら…

資本家の誕生 本源的蓄積

労働力の商品化によって、不払い労働が発生し、それが剰余価値の正体であり、搾取の源泉とされます。

なぜ労働力の商品化が起こるのか、なぜ賃労働を行うのか、それは生産手段が資本家に奪われているからだと。

資本主義が回り出すと、資本と労働の関係は再生産されますから、資本家は一生資本家、労働者は一生労働者となり続けます。

では、資本主義のはじまりはどうだったのか?

それが、本源的蓄積と呼ばれるもので、例えば農民から暴力的に農地を奪うことだったと、「資本論」では解説されます。

そのほかの資本家誕生の例として、

疑いえないことは、多くの小さな同職組合の親方と多くの独立手工業者、あるいは賃金労働者さえも、小資本家となり、そして、賃金労働者の搾取のゆっくりとした拡大と、それに照応した終わることのない蓄積とともに、完全な資本家になったのだということだ。(「資本論」からの引用部分)

資本家がどこから来たかは、不明確です。ただ言えることは、機を見るに敏なるものにはチャンスがあった。

ということですから、今も同じように起業すればいいんじゃないでしょうか?

事業を考えたり、商材を販売したり、労を惜しまなければ、嫌なこと不得意なことでも死ぬ気で取り組めば、全員とは言いませんが道は開けると思うのですが…

なお本源的蓄積も、歴史的事実は「資本論」の記述とはかなり違っているというのが、現代の認識だそうです。

インテリゲンチアだった青年時代の「資本論」

カール・マルクス「資本論」岩波書店 向坂逸郎訳

私が、起業家として読む「資本論」を展開する自信や根拠は、次のとおりです。

「剰余価値」とか、「搾取」とか、「階級闘争」とか、サヨク用語を使って私を批判しても無駄です。

私は、そこら辺のサヨクとは比べものにならないくらい、マルクスに、また「資本論」に打ち込んでいます。

大学に入ってすぐ、大きく影響を受けた先輩T氏と一緒に、毎週土曜日午後から夜間にかけて読書会をやりました。

その時に、私が用いたテキストが下記、岩波書店・向坂逸郎訳の単行本でした。

お見せできませんが、赤い傍線や、書き込みや、付箋などでドロドロになっています。

第一外国語の専攻がドイツ語だったので、当時東ドイツ共産党(ドイツ社会主義統一党)のマルクス=レーニン主義研究所が刊行した、ドイツ語原書も入手しました。

下図は、ドイツ語原書の中表紙です。

カール・マルクス「資本論」ドイツ語版 カール・マルクス「資本論」ドイツ語版 中表紙

そして、「資本論」第一巻に限って、マルクスは英語版とフランス語版を出版しています。

カール・マルクス「資本論」英語版 カール・マルクス「資本論」フランス語版 邦訳

左が英語版の原書、右がフランス語版の日本語訳です。

そして日本語訳は、向坂訳単行本だけでなく、何度も読み返す意味も兼ねて、文庫版を3種類仕入れました。

カール・マルクス「資本論」邦訳 岩波文庫版 カール・マルクス「資本論」邦訳 国民文庫版 カール・マルクス「資本論」邦訳 青木文庫版(長谷部文雄訳)

左は単行本の岩波文庫版です。中は大月書店国民文庫版。そして右が、名訳と誉れの高い長谷部文雄訳の青木文庫版です。

ちょっと痛い蔵書の披瀝ですが、今から進めたい起業家として読む「資本論」のバックボーンとしての、私の資本論の履歴書を書いた次第です。

ハイゼンベルクの不確定性原理によって、左翼つまりリベラルに

ついでに。

ほぼ同時期に、ハイゼンベルクの不確定性原理を知り、「科学」の限界、傲慢さを思い知り、もともとが自由に価値観を持っていましたから、マルクスの「資本論」を読んでも、左翼=リベラルになったものの、程度の低いサヨクにはならなかったということです。

『ハイエク 知識社会の自由主義』池田信夫著 これですべての謎が解けた

先だってのSEOセミナーの懇親会の話です。

私は、池田信夫さんは凄い人で、この方のブログにアクセスしたり本を読んだりしないとダメですよ。と言うと、知らない人がほとんどだったので驚きました。

ということで、もう一度、エバンジェリストになっておきます。

  • 池田信夫 blog

実際、このブログはPageRankも6ですし、2008年6月のページビューは145万超とのこと。池田さんは間違いなくアルファーブロガーのひとりです。
ブログに、Amazonへのアフィリエイトリンクを貼っておられますが、その収益は執筆の原稿料以上とのことです(笑

ハイエク 知識社会の自由主義と池田信夫 blog

最近読んだ、池田信夫の『ハイエク 知識社会の自由主義』は私の脳の中を革命してくれました。(以下敬称略)

人々は不完全な知識のもとで慣習に従って(必ずしも合理的とはいえない)行動をするとハイエクは考えた。

「不完全な知識にもとづいて生まれ、常に進化を続ける秩序が、あらゆる合理的な計画をしのぐ」というハイエクの予言を、インターネットは証明したのである。

池田信夫著『ハイエク 知識社会の自由主義』

池田信夫著『ハイエク 知識社会の自由主義』

ところで、私にとっての哲学、認識論は、若いころに触れた量子力学(もちろん入門レベル)、とりわけハイゼンベルクの不確定性原理によって大きく修正を余儀なくされました。

極端に言えば、学説とか定説とか、常識とされていることは本当は風説に過ぎず、いつでもくつがえるということ。
さらには、科学的アプローチを進めていけば、その科学を否定しなければならないということ。

真実はそのまま存在していて、科学の進歩とか知識の集積によって、真実が必ず解明されるというのは神話である。
事実というのは存在しない。観察行為そのものが観察対象に干渉することによって、事実は刻々と変化するし、観察者の数だけ事実が存在することになる。

こういった意味で、私の哲学はカントの物自体を背景とした認識論、あるいは懐疑主義に転向していくわけです。廣松渉もその先生のひとりでした。

真実を知ることは絶対にできない、って凄くないですか?

もっとも、まず欧米の合理主義の洗礼を受けて知への信仰が根付いていないと、分からない話ではあるのですが…

『ハイエク 知識社会の自由主義』の第一章は、「帝国末期のウィーン」と題されています。

西洋の没落

ハイエクが生まれたのは一八九九年、帝国が崩壊する世紀末のウィーンだった。

シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンなどの新ウィーン学派は、西洋音楽の基本構造である調性を否定し、十二音などの新しい音階によって作曲する実験を行った。調性のない不安な音楽は、第一次大戦の荒廃したウィーンの状況を映し出すとともに、古典派以来つづいた西洋音楽の歴史に終止符を打つものだった。

ウィーンは、科学の分野でも二十世紀の方向を決めるような重要な発見を生み出した。シュレーディンガーが波動方程式を発見し、量子力学の基礎を築いたのはウィーンである。同じ時期、ドイツでもハイゼンベルクが不確定性原理を独立に発見し、両者は数学的に同一であることをシュレーディンガーが証明した。

こうして私の中で、学生時代に感染した認識論の限界と懐疑主義、今進めているインターネットでのビジネス、そういった諸々のものが見事につながったのです。つまり、私的には、すべての謎が解けた、そういうことになりました。
そして「偶発性の哲学」として、ほとんどすべての知識や経験がひとつの大系としてまとまったのです。

「哲学」というのは、法則や原理や定理といった生やさしいものではなく、私の経験と知識のすべてを統合し貫徹する絶対的な思想だからです。

なお、「そういった諸々のもの」とは、まず歴史認識です。

マルクス・ヘーゲル的な西欧中心の歴史主義への傾倒と距離感、古事記・日本書紀には書かれていない日本古代史の闇の王朝交代劇、あるいは栗本慎一郎の経済人類学やオーパーツ(OOPARTS)などなど。
西洋の音楽史や絵画史、日本の和歌史など、すべての歴史を持つ事象が「偶発性の哲学」で理解することが可能になったのです。

もちろん、数々のバブルとその崩壊による経済危機についても、ナイトの不確実性やタレブのブラックスワンについても、すんなり入り込めるようになりました。

The Black Swan – 池田信夫 blog

ふつう自然科学や経済学で確率を考える場合、ほとんど正規分布を仮定している。しかし実際に世界を動かしているのは、そういう伝統的な確率論で予測できない極端な出来事――Black Swanである。

著者がBlack Swanを理解していた唯一の経済学者として挙げるのがハイエクだが、実は彼より前にこの問題をテーマにした本がある。Frank Knightの"Risk, Uncertainty, and Profit"(1921)である(ウェブサイトで全文が公開されている)。Knightは、確率分布のわかっているリスクと確率分布を計算する根拠のない不確実性を区別し、リスクは保険などで事務的に解決できるが、不確実性は経営者の決断によって解決するしかないとした。

その後の経済学者は、Knightの議論を「意味論的な思弁」としてバカにし、根拠もなく正規分布を仮定して、壮大な理論体系を構築してきた。

次の記事は、タレブに近況について。

White Swan – 池田信夫 blog

Bloombergによれば、Nassim Talebが顧問をつとめるヘッジファンド、Universal Investmentが今年、50%以上の値上がり益を出した。彼らの使っている投資プログラムBlack Swan Protection Protocolは、out-of-the-moneyのオプションを買うことでリスクをヘッジするものだ。

「ブラックスワン・プロテクション・プロトコル」という投資プログラムって、凄いネーミングです。

SEOと不確実性あるいはブラックスワン

私の運営するSEO塾は、しこしこSEOをやってお気楽に順位アップするだけでなく、アルゴリズムの変更やペナルティの導入による順位変動の検知、分析、リカバリーが売りとなっています。

商用サイトにとって、検索エンジン経由の集客は、ある意味で生命線になっていますから、順位ダウンは死活問題になりかねません。

よって、アルゴリズムによる順位変動があるものとして対策に組み込んで、上位表示の確率が高く、かつペナルティを受けにくいフォーマットを開発しました。
これによって、ある意味でナイトの言うようなリスクを回避できるのです。

ただ、Googleの昔のフロリダ・オースティンや、サンドボックスなどのアルゴリズム変更(もしくはスパムフィルター導入)のときは、数サイトが原因不明の順位ダウンに見舞われました。最近ではYahoo!のトップページダウンペナルティでしょうか。
これは、ナイトの不確実性であり、タレブのブラックスワンと同等のものに当たるでしょう。

タイトルとか見出しタグにキーワードを書くとか、相互リンクや一括登録でたくさんリンクを受けるというようなことは、あるいはその他どんなに高度で他人の知らないテクニックを駆使して上位表示を達成していても、これはホワイトスワンに過ぎず、いつでもブラックスワンという突発的で予測不可能な順位変動は起こりうるし、実際に起こっているわけです。

ということで、私も本業のSEOで「ブラックスワン・プロテクション・プロトコル」を発明しちゃいました(笑
そのさわりの部分は、2008-10-09に開催した「順位変動対策のSEOセミナー」の最後に語っています。

どんな順位変動が起こるかは、予測不可能であり、偶発性から逃れることはできませんが、このいつ起こるか分からない偶発的な順位変動を織り込み済みにするサイトオーナーの事前準備は可能なのです。

新しい商材、事業の計画 – マーケティングやデータの無力

知識を過信していない人、出たとこ勝負の人、その日暮らしの人には関係ないことですが、ある程度の情報を収集して、それなりにビジネスに活かしていこうというタイプの人は、手持ちの知識で将来を設計・デザインすることは不可能であると自覚した方がいいでしょう。

もっとも分かりやすいことは、例えば新しい商品を売り出す場合に、市場はまだ存在しないわけで、マーケティングしようにもデータがそもそもないのです。
もし商品が、従来のものの改良品であれば、既存勢力との戦いになるのですが、画期的であればあるほど、未知の世界に踏み込んだ市場創出といった展開になります。

個人の人生においても、新しい体験や、知らないところに足を入れることはしばしばあるでしょう。

問題は、こういった未知のものに対して、既存の知識や情報、データなどを総動員するような官僚的手法では、必ず失敗する、そこまでいかなくても可能な限り失敗する、そういう認識が必要と言いたいのです。

例えば、ハイエクやナイト、タレブのような一流の経済学者が取り上げるであろう、サブプライムローン問題に端を発した世界的な金融危機は、国家や大企業だけに限定されず、規模の大小にかかわらず消費の低迷などでわれわれスモールビジネスの領域も浸食してくるでしょう。

金融機関からの融資が経営の前提になっているところは、既に貸し渋りや貸し剥がしによって、存続が危ぶまれている会社も出はじめています。

だがしかし、経済はゼロ、つまり壊滅するわけではありません。

それでも、人々は細々と、あるいは逞しく、生きていくわけです。

この未曾有の艱難に、青天の霹靂のような運命として泣き言を垂れるのか、千載一遇のチャンスと捉えるのかによって、事業家のその後が大きく変わってくるはずです。

不確実性やブラックスワンを射程に入れたビジネスモデル、ないしは経営方針によってこそ、会社や事業家は生き延びることができるということになるのです。

そもそも起業家そのものが、みずから不確実性やブラックスワンを体現して世に出て行くものなのです。

思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本:郷原信郎著 コンプライアンスの暴走

「思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本」で郷原信郎氏は、いかに日本がとんでもない錯誤に満ちた世界になっているか、反省を促しています。

『思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本』郷原信郎著

著者の郷原信郎氏は、かつて例の東京地検特捜部にも籍を置いた、日本のコンプライアンス問題の第一人者である弁護士です。

その方が、特に経済に関する無知不勉強な検事や裁判官を批判し、暴走するメディアや大衆の「法令順守」病に冒された思考停止に警鐘を鳴らしています。

思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本:郷原信郎著

「不二家」や「伊藤ハム」の事件に当事者として携わった人間として、著者は騒動の愚かさを指摘しています。
発表しないことを「隠蔽」として騒ぎまくったメディアの、国民の安全ではなく視聴率だけを追求したというバカさ加減が分かります。

姉歯事件をきっかけとして建築基準法が改正され、これ自体が官製不況をもたらしました。
誰も彼もが、建築士や建設会社やマンション販売会社を叩いて潰して社会的生命を終わらせたのですが、地震が来たら壊れそうな建物はいくらでも残っており、そしてそれらは建設当時の法律には違反していないということで放置されているのです。

法律を守って、国民の安全は守られず。これが今の日本です。

ライブドアの堀江貴文、村上ファンドの村上世彰、ブルドックソースの企業防衛判決など、経済をめぐる検察と裁判所の無知や不勉強さを指摘し、さらには日本の経済活動に致命的なダメージを与えたと。
また、広島のアーバンコーポレイションが破綻して地元は大変なんですが、この裏に直前にアーバンに融資したBNPパリバ証券の不正な「スワップ契約」が株主に致命的な損害を与えたかもしれない事件は、放置されているそうです。これは、堀江や村上どころではない、大犯罪の可能性もあると。

裁判員制度や、社会保険庁の年金記録漏れ問題も、テレビや新聞とは大きく異なった見解を示しています。

終章の、今の馬鹿げた日本の法令順守・思考停止社会から脱する提案は、少し説得力がありませんが、それはわれわれがなすべき役割でしょう。

結論としては、みのもんたや古舘伊知郎、宮崎哲弥などの電波芸者に騙されず、自分で情報を集め、自分で考え、自分で判断するしかない。そういう世の中にしよう、ということになりそうです。

  • 参照:思考停止社会 – 池田信夫 blog

思考停止、判断停止、疑念停止こそがブランドの正体?

非常に飛躍した意見です。

マーケティングにおいて、ブランドのあるなしで決定的に違うというのが、理論的な帰着です。

では、ブランドが果たす役割、消費者の購買行動に、どう働きかけているのか? が肝となるでしょう。

ブランドがあることによって、消費者は、商品の機能や他商品との違いなどを既に知っており、また、会社についても商品の開発力や販売の確実性などを自明のものとするわけです。

ECサイトにおいては、商品の紹介文と実際に届いたものとの落差を心配せずに済みますし、また振り込んでも届かないといった不安もぬぐい去られています。

ということは、ブランドがあれば、商取引において、疑いの心が生じないと言えるのではないでしょうか?

ですから逆に、ネガティブな悪評判が経てば、上記の郷原信郎氏が指摘するような、思考停止したこれでもかという大衆の攻撃が起こっているわけです。

つまり、ポジティブな評判としてのブランドは、消費者の思考停止を招いていて、良いとか悪いとかの判断も停止しており、詐欺ではなかろうかという疑念も湧かないようになるのです。

だから、ブランドがあれば、売れるのです。

私が究めたところのブランドの正体とは、消費者の購買において、思考停止、判断停止、疑念停止するだけの確固とした評判や信頼や確立すること、となります。

いかがでしょうか?

「メディア・コントロール」ノーム・チョムスキー著 テレビや新聞と戦争・侵略・虐殺

大学生時代にハイゼンベルクの不確定性原理に出会って以降、知は徘徊と変遷を続けていましたが、今回ようやくすべての辻褄があい、私の思想や哲学も完成を迎えることになりました。

つまり、世界の見方や生き方、ビジネスにおいて、不確定性や偶発性を軸に、すべてを脳の中に取り込むことができたわけです。

これは、後日エントリーしますが、ここでは私が集大成にいたるきっかけとなった本を紹介しておきます。

『メディア・コントロール ―正義なき民主主義と国際社会』ノーム チョムスキー著

非常に刺激的な、というよりも衝撃的な本です。

「メディア・コントロール」ノーム チョムスキー著

アメリカのごく少数の支配層は、自分たちの利益のために他国に戦争を仕掛け、侵略し、虐殺を行ってきたという告発です。

そして、そういった極悪非道の国家犯罪を隠蔽し、場合によってはテレビや新聞などのメディアを駆使して、大衆を洗脳したという。

つまり、全体主義国家が警察や軍隊や監獄などの暴力によって大衆を抑圧しているのに対して、アメリカという「民主主義」国家は、報道や宣伝などの「民主」的な手段によって戦争翼賛の世論をつくり、他方で正しい意見を持つ人を孤立化させて封じ込んだということです。

アメリカの非道、アメリカの相対化、そして日本。あるいは自分

ジョン・F・ケネディが大統領に就任したのが1961年。ベトナムへの介入も、ケネディの決断です。早期撤退を志向したということばかりがクローズアップされていますが。

また、イラクのフセイン大統領も、アフガンのタリバンも、元はアメリカが支援したわけです。悪の枢軸とか、国際テロリストとか言っても、アメリカの自作自演の可能性もあるのです。

メディア・コントロール の奥付では、2003年初版となっていますから、これ以降にチョムスキーが描写したとおりが再現されて、ブッシュが大統領に再選され、そしてイラク侵攻がなされたということになります。

とはいうものの、アメリカへの幻想を打ち砕くとか、アメリカを批判するとか、そういった内容として読んではもったいないですね。

アメリカという国の、政治や経済、あるいは文化に対して、相対化することは大切です。

そして、それ以上にチョムスキーが指摘する現象、あるいは事例は、アメリカに限ったことではなく、例えばこの日本でも見られることに思いを向けなければならないでしょう。

報道や宣伝と大衆の気分

さて問題は、チョムスキーの言うようなメディア・コントロールがあったとして、これが国家の支配層がうまく利用することだけを取り上げても意味がありません。

われわれが真実と思うもの、これがいつも疑わしいと気づくべきなのです。

テレビや新聞の報道において、Aという事実を取り上げ、それに対抗するBという事実を取り上げなかったら、人々はAに傾くのです。

卑近な例としては、日本のテレビは、アメリカの地デジ移行が失敗しつつあることを報道しません。
また、わが国における地デジ対応機器の導入率も50%を切っています。これもテレビはまったく取り上げていないようです。

ということで、自分も、誰も彼も、一方で偏った情報で正しいかどうかを決めているかもしれませんし、他方で思いもよらずに情報操作しているかもしれません。

そしてビジネス面では、相手が顧客だったとしたら、自分の会社やサービス・商品が、どのようにして伝わっているのか、これを精査する必要もあるというものです。

チョムスキーの著作は、非常に生々しい国際政治のドロドロを描いてはいるものの、多かれ少なかれ、人間は偏った情報を受け取り、偏った判断をするものだということです。

行動経済学やニューロマーケティングという現在最先端の販売方法論において、こういった人の認識や意志決定などの情報処理や消費者行動など、探求するべき課題となるはずです。

「本は10冊同時に読め! – 本を読まない人はサルである!」成毛眞著

根本的に、読書に対する考え方や態度が変わりました。

私は、営業体験を持たない人をあまり認めませんし、読書しない人もダメだと思っています。

そういう意味では、大多数のサラリーマンや、零細・中小企業の経営者も、肝胆相照らす仲にはなれませんね。

成毛眞『本は10冊同時に読め! – 本を読まない人はサルである!』

これは途轍もない本です。

この本で紹介するのは、「庶民」から脱するための読書術である。

高所得階級の人間になるか、低所得階級の人間になるか―その境目となるのは本を読んでいるか、読んでいないかの違いである。

本は10冊同時に読め! - 本を読まない人はサルである! 成毛眞著

成毛眞氏は、大学卒業後ある自動車部品の販売会社に就職、その後1991年から2000年までマイクロソフトの社長を務めています。

ともあれ、「セレブ(セレブリティ)」と言われる胡散臭い富裕層もどきではなく、賢くて社会の中心にいるべき「エスタブリッシュメント」という真の支配階級とは、どういう人たちなのか、この本を読めば分かります。

成毛眞氏の言う「庶民」、つまり低所得層は、

  • テレビのCMや雑誌の広告でモノを買う
  • 自分の苦労話を何時間も語る
  • スポーツ、テレビ、女、金儲けの話題が中心
  • 上司のグチ、会社の待遇への不満、女房のグチ、しょうもない自慢話の会話
  • イノベーションできない
  • 理想や思想、哲学がない
  • 行列や混雑に甘んじる
  • 仕事のオン・オフを切り替える
  • スケジュールがぎっしり
  • ベストセラーやハウツー本、「成功」がタイトルに入っている本を読んでいる
  • 仮説を立てることができない
  • アメリカ人やヨーロッパ人を相対化できないし、例えば東洋的世界観を説明できない

もちろん、最初から最後まで、読書しない人はダメです。

そのほか、読書のときに傍線を引くとか、メモを取る習慣とか、これも否定されていてビックリします。

ともかく、耳が痛いと言うよりも、非常に上から目線で選民意識が貫かれているようで、人によっては瘴気にあたって気分が悪くなるでしょう。

旅行や留学で海外に行き見聞を広めれば、視野が広がるといわれている。だが、ロバは旅に出て帰ってきてもロバ、馬にはならない、ということわざがある。(40ページ)

女王アリは、支配するための本だけを読めばいい。働きアリが読むような本を読んでいたら、思考が労働者になってしまう。(51ページ)

ただ、成毛氏の有言実行の事例としては、現在投資コンサルタント会社を経営していますが、その話題がほとんどありません。
また、現在の年収、あるいは貯蓄額なども言っていません。
もちろん、天下のマイクロソフトの社長時代の話も、1行ほどでした。

つまり、自慢話が皆無ということです。

そういう点では、どれだけ儲けたとか、今がどうだとか、ハウツー本や「成功」本を書くのは、「庶民」DNAの成り上がりということかもしれませんね。

私としては、最初の仕事が販売会社というのが気になります。営業をやっていたとしたら、営業 + 読書体験 という方程式が成り立ちそうですが…

成毛眞氏の語る脱「庶民」を目指したわけではありませんが、とにかく、今は同時に複数の本を読む習慣に切り替えました。

『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』北 康利 著 - 独立自尊のイノベーターの伝記

今日2月3日は福沢諭吉の命日です。

一万円札に肖像が採用されている人物ですね。

お札に載るほど日本の国家権力に貢献したとか、学問のすすめとは何と説教がましいことをとか、お金持ちの子弟があつまる慶応義塾大学の創始者とか、私はまったくいい印象を持っていませんでした。

だがしかし、この本を読んで打ちのめされました。今はわが不明を恥じております。
今なおこの平成日本は、福沢諭吉がやったように、「開化」するべきものではないのかと驚くのです。

福沢諭吉 国を支えて国を頼らず 北 康利 著

この伝記本の著者である北康利氏は、確信犯的に、今の平成日本を福沢諭吉の時代、幕末から明治と同質なものとして描いているはずです。

まず副題、「国を支えて国を頼らず」とは、納税しても補助金をもらわず、公共事業にたかるな、と読めます(笑

そして、目次の第一章は「門閥制度は親の敵でござる」となっており、ゲンコツで頭を殴られた気分になりました。

『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』北 康利 著

もうお気づきでしょうが、先のエントリーである「フランダースの犬」ネロになりたくない、ネロにならせたくない。「閥」への憎しみ は、実はこの福沢諭吉伝の書評を書くための前触れだったわけです。

福沢諭吉の父百助は最下層武士の生まれだったために、好きな学問を修めることができず、その父の無念憤懣を母お順から聞かされ育った福沢諭吉は、門閥という生まれによって才能が飼い殺しにされる封建制度を憎み抜いたのです。

無知無学なために権力にいいように翻弄される大衆から離脱するために、日本国民に学問をすすめたのです。

明治政府の官僚を生産する家畜舎となった東京大学に対して、それ以前に、「民」であり「私立」であることを矜持として慶応義塾を創立したのです。

平等を謳いながらもわが子らに与え続けたり、最晩年は朝鮮や中国に対する帝国主義者的な言動が散見されるようですが、自由を追求し続けた福沢諭吉の思想の瑕疵とはならないでしょう。

福沢諭吉の思想からは、門閥という封建制を消滅させたはずの明治維新は、ただ幕府や主君から薩長に変わっただけの藩閥を産み出した「裏切られた革命」のニュアンスがあります。

実際、この年になってはじめて知った、明治政府による福沢への言論弾圧や、兵役なども東大などの官製学校の生徒は免除されたのに、慶応義塾などの私製学校の生徒は課せられたことなど、権力の横暴にはらわたが煮えくり返るほどです。

本書中、福沢が九鬼隆義に語ったとされる言葉が頭にこびりついて離れません。

わが国には、もう十分な数の為政者がいます。むしろ多すぎて困っているくらいです。これからは庶民の教育こそ肝要なのです。

この言によって、九鬼隆義は学校をつくり、実業に乗り出したということです。

福沢諭吉は、大教育家ではありますが、それは実業のための学問を普及させ、権力を評価する知識を伝道し、間違いなくイノベーター、そして起業家だったと言えるでしょう。

福沢諭吉 生誕地の記念碑

物議を醸しているGoogleビューですが、こんな便利な使い方もできます。
下記は、大阪市福島区福島一丁目にある福沢諭吉生誕記念碑です。


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『男組』全巻電子書籍購入 神竜剛次の絶望 流全次郎の希望

iPad 2をゲットしたこともあって、少年時代に熱中したマンガ『男組』全巻をeBookJapanで購入しました。
すでにアナログの単行本の方は廃刊?になっており、入手難でしたから、電子書籍は嬉しいことです。

神竜剛次は闇、流全次郎は光 大衆は豚、老害日本

これからも、日本の電子書籍は、Appleの独占商法や対抗する出版社の利権や著作権などがからんで、紆余曲折をたどるでしょう。

男組全25巻

原作は、『美味しんぼ』の雁屋哲です。

主人公は、流全次郎。物語の後半部で、真の悪者は戦後日本の支配者「陰の総理」ですが、全編を通じての敵役は神竜剛次です。

彼の哲学がもの凄い…

神竜剛次の大衆豚哲学大衆豚哲学大衆豚哲学

そして、大衆という大人の豚に喜んで仲間入りしようとする若者を全否定する神竜剛次ですが、敵前逃亡を繰り返す若者には流全次郎も批判的です。

「今、戦わない人間が、あとで戦うわけがない!!」

大衆は戦わず言い訳ばかり

神竜剛次は、陰の総理によって与えられた権力を使って陰の総理を倒そうとし、そして流全次郎に敗れ絶命します。

神竜と流は革命家流全次郎の思想は大衆ではなく神竜剛次に近い?

物語は、高校生と殺人者・傭兵や警察などとの戦争状態、荒唐無稽です。

最後は流全次郎が単身で陰の総理を倒しに行きます。

聖書からの引用、「一粒の麦」
個人が、生命や財産にこだわり続けたらそのまま、命を投げ出し既得権や目先の利益を放棄してこそ、多くの人々が救われるということです。

エディプス・コンプレックス

美味しんぼの海原雄山を見ても分かるとおり、雁屋哲にはエディプス・コンプレックスがあるようです。

それは、現在の悲惨な状況を生み出している先行する世代、老人が支配する権力への憎悪でしょうか。

そして、その老人たちに気に入られようとする若者にも嫌悪しているようです。

また、神竜も流も長男であるはずなのに、剛次や全次郎という名前もいぶかしい。次世代が前世代を打ち倒すべし、という意味でしょうか…

次は同じ原作者の『野望の王国』を買おうと思っているところです。