- 日本も間近か? Google、ドイツ・インド・イタリア・シンガポールでも著者情報の表示を開始 〜 -
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米GoogleウェブスパムチームのMatt Cutts氏は2012年4月16日、自身のTwitterアカウントにて、2万件以上のサイト管理者に対し、改ざんされたことを通知するメッセージを送付したことを明らかにした。
米Microsoftは2012年4月13日、今週18日からYahoo! Ireland, France, UK 各検索サービスで提供する検索連動型広告プラットフォームを adCenterに順次移行すると公式ブログで発表した。
検索業界で初対面の方に会った時、「どうして(そんな昔から)SEOに興味を持ったのですか?」と尋ねられることがあります。私は1996年の冬頃に興味を持って、事業として始めたのが1997年7月ですので、日本では間違いなく最古参の一人に該当するでしょう。
当時はSEOという言葉がまだなく(英語だと search engine placement, search engine rankingなど色々な表現が用いられており、これ!というのがなかった)、この手の仕事に携わっていた方(それ自体少数ですが)の大半はいわゆる今でいう「検索エンジン登録」(search engine submission, 例えば Yahoo! JAPANや CSJインデックス、NTT新着情報などへの掲載を請け負う)のビジネスでした。ウェブサイトと関連性が高いキーワードで検索上位に表示する、という指向、つまり現在のSEOを考えて事業展開していた方というのは日本では皆無に等しく、米国でも数えられる程度にしかありませんでした。
実は今年度の社内の新卒研修の中でこの「私がSEOに興味をもったきっかけと続けた理由」についてお話したのですが、そういえば私自身これを記事で書いたことはなかった気がしますので、今年で検索業界15年目ということもありますし、ちょっとまとめておこうと思います。
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清盛は、平氏一門の棟梁となったことも、平氏が政権の中枢に入ったことも、ある意味では偶然の所産です。
ですから、後付けの予定調和的な、歴史解釈は、百害あって一利なし。
むしろ、欧米的な不確実性とか、たまたまとか、まぐれとか、そういったかたちで、清盛の生涯を追いかけたほうがいいでしょう。
そもそも、この時代に活躍する人たちも、偶然に偶然が重なって舞台に上がった者たちばかりです。
平清盛と平家一門の繁栄は、当時の常識や習慣を破壊したことによってもたらされています。
そして、破壊によって、あるいは破壊し尽くせなかったことによって、滅亡したと言えるでしょう。
時代は、一瞬は清盛を必要としたけど、要らなくなったら使い捨てした。これが真実かもしれません。
清盛は、武力によって政権中枢に入り込んだのですが、経済的には農よりも商に重きをおいた可能性があります。
藤原氏・摂関家も、荘園などの農ベースの経済力が権力の基盤となっていました。
また、源氏を私兵とすることによって、武力をそなえていました。
逆に、同じ武力を頼みにしても、土地支配による農産物の税収を経済基盤とする、源氏とその取り巻きによって、武家政権を樹立できたということになるでしょう。
清盛は、中国(宋)との貿易を積極的にすすめ、博多止まりの航路を、瀬戸内海を通行可能にして、福原(神戸)まで拡張しています。
福原を首都にしようとした経緯もあります。古い都では古いことを続けざるをえないので、開けた国際的な海洋貿易の都市としようとしたのかもしれません。
知性も教養もない野蛮な源氏の木曾義仲に、福原は焼き払われてしまいました。
そして、日本史で毎度毎度出てきては消されるのが、国際派にして改革派。
ことごとく打倒されるか、退場して、国内派が権力を掌握しています。
蘇我入鹿や田沼意次などは、慣れ親しんだ価値観を否定されることにおびえる者たちには、いなくなってもらうべき奇人変人だったのでしょう。
海洋貿易では坂本龍馬以上の実績ですし、農ではなく商で経済力を高めたこと、伝統や因習に縛られなかったことは、織田信長のような革命家の風貌さえあります。
以下の年表を見ても、清盛の出世と平家一門の政権掌握のパターンは、藤原氏の模倣に過ぎません。
(清盛前史で見たように、不比等や仲麻呂も、人臣初の皇后や太政大臣と批判されています)
時代が、武力を要求したので、たまたま当時の日本最高の武力を持っていたから、中央に進出できたと思えます。
当時の不穏な時代、そしてアンチ藤原摂関家というトーンで、政治における武力の必要性をもっとも意識したのは、王家の白河院ではないでしょうか?
つづいて、公家に対する死刑を復活させた信西が、王家を栄えさせるため、公家の力をそぎ落とし、武家を利用したと思われます。
武力としては源氏・平氏がいたものの、経済力では正盛以来平氏が圧倒的だったので、白河院も鳥羽院も平氏をひいきにしたと言えます。
平氏は京都・中央で活躍し、源氏はせいぜい摂関家の私兵で、義朝が鳥羽院に認められたことを例外として、多くは地方で暴れ回っていました。
なお、源氏は八幡太郎義家を祖とする流れで、義家の子の義親―為義―義朝―頼朝は、実朝(鎌倉三代将軍)で断絶します。
別の義家の子の義国の流れが、鎌倉幕府を支え、室町幕府の将軍と守護大名を輩出します。
源氏には、親子兄弟血縁での内部抗争が多く、もとから力ずくで解決する、殺してでも排除するというDNAも感じなくもないですね…
基本的には、武家とか源平とかに引っ張られると、清盛の革命性が薄まります。
たしかに頼朝に先行する武家政権の端緒ではあったかもしれませんが、商業や貨幣による人と物との流動性、さらには海洋貿易による国際感覚など、現代に通じる清盛の功績が光を失ってしまうでしょう。
この時の日本に必要だったのは、武家政権ではなく、公家・藤原摂関家の政治支配の終焉だったと思えるのです。
軍隊の支配ではなく、軍事力による治安秩序維持を背景とした日本統治。
明治政府中世版のようなものでもよかったのかもしれません。
キーワードは、やはり外戚政治です。
また、仲麻呂のように軍事による決定力をもっていました。
問題は、(a)藤原氏の模倣の外戚政治、ただし、そもそも(b)武家の身内が天皇の妻になること、天皇の母になることが、奇跡だったわけです。
そこまで上り詰めたことは、平清盛の偉大な力でしょう。
| 西暦 | 年齢 | ことがら | 王家・ほか |
|---|---|---|---|
| 1118 | 1 | 清盛誕生 | (白河院政) |
| 1119 | 2 | 後の崇徳天皇誕生 | |
| 1123 | 6 | 崇徳天皇即位 | |
| 1127 | 10 | 後の後白河天皇誕生 | |
| 1129 | 12 | 従五位下 | 白河院没。鳥羽院政 |
| 1139 | 22 | 後の近衛天皇誕生(母美福門院) | |
| 1142 | 25 | 近衛天皇即位 | |
| 1143 | 26 | 後の二条天皇誕生(父後白河/美福門院養子) | |
| 1146 | 29 | 安芸守 | |
| 1147 | 30 | 祇園騒乱事件 | |
| 1149 | 32 | 異母弟家盛急死 | |
| 1151 | 34 | 以仁王誕生(父後白河) | |
| 1153 | 36 | 父忠盛没。平氏棟梁 | |
| 1155 | 38 | 近衛天皇没。後白河天皇即位 | |
| 1156 | 39 | 保元の乱。播磨守 | 鳥羽上皇没 |
| 1158 | 41 | 大宰大弐 | 二条天皇即位。後白河院政 |
| 1159 | 42 | 平治の乱 | |
| 1160 | 43 | 正三位 | 源頼朝伊豆配流 |
| 1161 | 44 | 権中納言 | 後白河院政停止。二条親政 |
| 義妹滋子(後白河后)後の高倉天皇出産 | |||
| 1164 | 45 | 後の六条天皇誕生(父二条天皇) | |
| 1165 | 48 | 権大納言 | 二条天皇没。六条天皇即位 |
| 1166 | 49 | 東宮大夫。内大臣 | |
| 1167 | 50 | 従一位太政大臣 | |
| 1168 | 51 | 六条天皇没。高倉天皇即位 | |
| 1171 | 54 | 娘徳子 高倉天皇入内 | |
| 1176 | 59 | 建春門院滋子没 | |
| 1177 | 60 | 鹿ヶ谷事件 | |
| 1178 | 61 | 徳子 後の安徳天皇出産 | |
| 1179 | 62 | 後白河院政停止 | |
| 1180 | 63 | 安徳天皇即位 | |
| 頼朝挙兵。以仁王敗死(このころ『梁塵秘抄』) | |||
| 1181 | 64 | 清盛死去 | |
| 1183 | 『千載和歌集』院宣 | ||
| 1185 | 壇ノ浦の合戦 時子、安徳天皇、三種の神器の天叢雲剣とともに入水 |
||
| 1192 | 後白河法皇没 | ||
源平合戦のときに、藤原定家が「紅旗征戎吾が事に非ず(戦は自分には関係ないよ)」と日記『明月記』に書いていますが、後白河法皇も、わが生き死にがどうなるやもしれない時期に、『梁塵秘抄』や『千載和歌集』を撰じているのは凄まじいですね。
ここにこそ、日本のエスタブリッシュメントに、「雅」を感じます。
平氏の家紋は、揚羽蝶です。
家紋のEPS素材を公開してます。検索、ダウンロード無料。
(使わせていただきます)
なかなか、クールなデザインですね。
結局、信長は「天下布武」と、明確に軍事力で圧倒して日本を支配するというイデオロギーがあったのですが、清盛は平氏の武力の時代的な意味を理解していなかったというところですね。
この本を読んだ感想として…
この本によって、海洋貿易の振興や、貨幣経済の浸透など、清盛の経済的な功績を教えてもらいました。
坂本龍馬は、薩摩資本の亀山社中、土佐資本の海援隊の、雇われCEOに過ぎませんでしたが、平清盛は日本国のトップとなって、経営したわけです。
この本は、今のNHK大河ドラマ『平清盛』を見るには必須です。
というか、これを読み込んでいないと、この時代の人は軸もなくぶれた毎日を送っていますから、それこそサイコロの目のように、昨日の友は今日の敵、登場しては消え、地位が上がっては失脚し、生まれては死んでいくような。
上図のように、重大なエピソードごとに、敵と味方を短評つきで図解しています。
そして、全ページの左端に、清盛の年齢も示されています。
とても便利な、清盛図鑑です。
当然、白河院以降の日本史は、すごろく化していることも視覚的に分かってきますよ。
これは、上記の図解版とはまったく違って、文字ばかりで(笑)、あまりにも登場人物が多く、姓が同じで、名も通字だらけなので、疲れます。
平氏と源氏は、かならず混乱しますね。
また、平家物語や、鎌倉室町に都合のいい資料の「アンチ平家・清盛」を、文献を引っ張ってきてくつがえしていくようなテーマですから、もとから、元の資料も、反論する文献も知らない私たちにとっては、敷居が高いようです。
NHK大河と同じ見方、清盛が武家政権の口火を切った、ということです。
先駆者ゆえに、アンシャン・レジームの破壊に没頭して、次の時代の創造まで手が回らなかったということでしょうか。
手柄を、頼朝にさらわれたというか…
上記の本と同じ作者です。
内容はほぼ同じですが、同じ本を二度読むよりは、同じ作者の別の本を読むほうが、理解は深まります。
これが、最後の、そして最高のお勧め本です。
作者は、NHK大河ドラマの時代考証者ということです。
武家が主役で、公家がいて、だから天皇家も「王家」がいいと提案されたそうです。
実際、この用語は、非常に分かりやすく、自分の頭も整理しやすくなりました。
正盛から忠盛と、先代がいてこその清盛と、平家一門のある程度の繁栄は見込めたという状況。
平家一門の安泰や結束力に対して、源氏では畳の上で死んだ人が少ないと(笑)
裏付けるように、源氏の者たちは、地方では暴力的に略奪をする狼藉者も多く、弓矢にたけたつわものも数知れずと、勇猛な話に事欠きません。
さて、院政の強大化、摂関家の頼長と忠通兄弟の私闘も重なって、ついに「350年ぶりの死刑の復活」。
のみならず、政敵を追い落とすために、武力を持って討つということが当たり前になります。
せいぜい、呪ったでしょ?と陰謀を仕掛け失脚させるか、人知れず毒薬などで暗殺する程度だったのに、平和ボケした時代をぶん殴るように、血で血を洗う正面からの武力闘争が幕を開けたのです。
後白河と信西と清盛、時代が求めた怪物たちがそろって、日本史は大きく転換したということのようです。
信西は、後白河・王家の完全政治のために、公家・摂関家を失墜させ、武家・平氏の軍事力をバックボーンに、理想の王国を構築しようとしたのでしょう。
また、日本全体で、反平家というより反既存政治の反乱が自然発生的に起こっており、源氏はその一部であること。
頼朝が挙兵できたのも、一度平氏に敗戦して再起できたのも、父義朝が開拓した関東の武士との人脈が大きかったこと。
こうして、政治、経済、軍事をまとめて、日本史の転換点で、平清盛が何者であったのか、そして平家一門の繁栄と滅亡など、「謎」がとかれていく。
ぜひお読みください。
NHK大河ドラマ『平清盛』の理解の助けになるとともに、事業を興すこと、続けること、会社をつぶさないことなど、非常にお役に立てることと思います。
NHK大河ドラマのミーハーとして、ようやく平清盛とその時代がよく見えるようになってきました。
勧善懲悪はもとより、予定調和、必然という言葉は意味を失います。
とくに『平家物語』や鎌倉室町政権時代の文献の、平氏・清盛悪人史観は、後世の目を曇らせてしまいます。
平清盛は、当時の全国の混乱によって政権交代が期待された時代の、転換期の人格化と言えるでしょう。
その意味で、日本の歴史が必要とした人物だったのです。
ところで、NHKの時代考証を担当された方に倣って、王家・公家・武家という用語を使います。
公家の筆頭 藤原氏の繁栄のキーワードは、外戚政治。
娘が天皇の妻になること、またその娘が天皇の母になること。
この独特な政権掌握の手法は、平安末期まで踏襲され続けます。
藤原氏の黎明期を、簡単に年表にしました。
| 西暦 | ことがら | 王家・ほか |
|---|---|---|
| 659 | 不比等誕生 | (斉明天皇) |
| 672 | 壬申の乱 | |
| 697 | 文武天皇即位 | |
| 不比等女宮子 文武夫人に | ||
| 701 | 後の聖武天皇誕生(父文武/母宮子) 大宝律令 |
|
| 706 | 藤原仲麻呂誕生 | |
| 718 | 後の孝謙天皇誕生(父聖武/母光明子) | |
| 720 | 不比等没 | |
| 729 | 光明子 皇后に※ | |
| 737 | 藤原四兄弟病死 | |
| 749 | 仲麻呂政治・軍事を掌握 | 孝謙天皇即位 |
| 757 | 養老律令 | |
| 758 | 淳仁天皇即位(仲麻呂推挙) | |
| 760 | 仲麻呂太政大臣※ | |
| 光明子(光明皇太后)没 | ||
| このころ、仲麻呂一族の官位独占。道鏡の台頭 | ||
| 764 | 仲麻呂(恵美押勝)の乱 | |
※王家以外では初ということになります。
不比等には、天智天皇の落胤という説があります。
仲麻呂は、政治のみならず軍事を掌握。一族が官位を独占。王家以外で初の太政大臣に。
称徳(孝謙の重祚)・道鏡の政治主導に、武力を頼んで反旗を翻し、朝敵となって一族は滅亡。
仲麻呂のキーワードは、外戚政治と軍事力をベースとした政権掌握、一族の官位独占、そして反乱と一族滅亡。
866年、藤原良房が王家以外で初の摂政に。
なお、年少の天皇には摂政、成人後の天皇には関白がおかれるようになります。
摂政:帝に代わって、政(まつりごと)を摂る
関白:帝の言葉を、関(あずか)り白(もう)す~先の関白を太閤と呼ぶ
白河院政期、藤原忠実と、長男忠通、次男頼長の権力闘争もあって、摂関家は政治力を失っていきます。
ちなみに、保元の乱によって頼長は落命。
摂関政治が制度疲労を起こしていました。
平安末期に、藤原氏を外戚としない後三条天皇が誕生。
アンチ摂関家勢力の支援による親政によって、藤原氏の政治力が弱体化、さらに荘園整理令によって藤原氏の経済力もダメージを受けます。
後三条の子、白河天皇によって親政は継続拡大し、さらには摂関家の混乱と年少天皇の即位によって、「治天の君」による独裁的な院政がしかれます。
摂関家の私兵に近い源氏を遠ざけ、北面の武士などとして平氏を重用。
キーワードは、アンチ摂関家、そして不穏な時代(地方の武装民、僧の強訴など)の軍事力評価。
失礼ですが、後白河にはポリシーはなかったと見うけられます。
自己の権力維持のみが目的であって、天下国家のデザインはまったくなかったと言えるでしょう。
そして、信西というブレーンもあって、政治力は軍事力となってしまいます。
政権の決定力は武力であると政治が変質し、平氏と清盛は暫定的に政権の中枢を占め、そして武士の時代を準備することになります。
源義家は、鎌倉幕府の開祖 源頼朝、室町幕府の開祖 足利尊氏、の祖先です。
父頼義の前九年、義家の後三年により、武名はとどろきます。
基本的に、義家も含めて源氏は摂関家の私兵に近く、その流れで義家の嫡流の為義は保元の乱で、藤原頼長についたようです。
義家の嫡男にして、為義の父、義親は狼藉が過ぎて、白河院の命によって平正盛(清盛の祖父)に討たれます。
これも、王家による公家・摂関家の武力を削ぐ意図として考えられるようです。
義家に粗暴過ぎると愛想を尽かされた子の義国は、関東の一部に勢力を持ちます。
後の、山名、今川、細川、畠山、新田、足利の祖でもあり、武家の本流となったのでしょうか。
関東を巡って、摂関家の私兵である為義と、院に仕える子義朝に確執があったとも伝えられます。また義朝は嫡男でもなかったという説も…
これが、保元の乱の、親子敵味方となるベースかもしれません。
なお、頼朝の母の由良御前の身分と人脈によって、義朝は院に仕えることができたし、頼朝も三番目の男子ながら嫡男になったと思われます。
清盛の祖父の正盛ですが、白河院の政治にピントが合ったということでしょう。いろいろ重用されます。
摂関家や源氏が、やや力を失っていたときに、間隙を縫ったということになります。
清盛の父の忠盛は、白河院、鳥羽院に、武家として仕え、貴族として位階を上昇させます。
他方で、密貿易を含んで、経済的基盤を拡張しています。
こうして、清盛の先代と先々代によって、軍事力と経済力が整い、政治力とは言えないが官位を上げることに成功します。
まあ、基本的に平清盛がやったことは、不比等・仲麻呂がやったことの再現と思われます。
もっと辛辣に言えば、藤原氏の劣化コピー、イミテーションであったということになります。
ただし、別エントリーとなりますが、清盛がやろうとしたことに意味を付与すれば、信長級の革命です。
さて、社長ブログとしての、平清盛に学習するべき経営者の心得は、
市場を支配している上位企業の模倣をすることによって、同じように上位に食い込むことはできるでしょう。
ただし、何を真似るかが重要です。
さらには、真似るにも、いろいろな条件がつきます。
既存の勢力がやや弱ったときに、先行者を模倣し、必要とされる付加価値をつけた商品ならば、ヒットを飛ばすことができるということでしょう。
平氏が滅亡したことに心が奪われ、まして盛者必衰といった役に立たない標語で平清盛を闇に葬っては、あまりに惜しいわけです。
勝ちパターンは、前の勝者の模倣から。
こういうことで結んでおきます。
- 『新米ウェブ担当者が覚えておくべき必須の業界用語×14』::海外&国内SEO情報ウォッチ -
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